故にこれを策(はか)りて得失の計を知る。

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現代訳

 敵がどのような意図を持っているのか、見抜くようにする

 利害損得を目算し、さらに、敵に揺さぶりをかけて敵の出方を伺い、次にどう出てくるか手の内を探るようにする。

 敵の態勢を知りえた上で、負けてしまう地勢、負けない地勢を把握し、敵と小競り合い程度で交戦してみて、守りが賢固なところと守りが手薄なところをあぶり出す。

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相手が次にどう出るかを先読みする。


*野村監督の「ID野球」誕生秘話

 「ID野球」の先駆者である野村克也さんに直接そのデータ重視野球の根源を伺ったことがありあました。

 野村さんが選手として1954年に南海ホークス(当時)に入団した頃は、まだデータを駆使するような野球は存在しませんでした。

 野村さんが入団したその年に、鶴岡一人監督が、はじめて「スコアラー」(野球において、試合経過や得点を記録する人物。単に試合の記録を行うだけでなく、対戦チームを視察し、相手バッターやピッチャーの情報を入手して調査・分析を行う)を採用したほどです。

 それでも、バッティングに悩んだ野村さんが鶴岡監督に教えを請うた時、

 「そんなもん、ボールがホームの上にきたら打てばいいんや!」という答えが返ってきたといいます。


*野球の神様の言葉に注目し、活路を見出す。

 悩み抜いた野村さんは、大リーガーの名選手テッド・ウィリアムズ(ボストン・レッドソックスに在籍し、メジャーリーグで三冠王を2度獲得。1941年には打率4割超えを達成。打撃の神様と呼ばれている)が書いた打撃論の本を読みあさります。

 そこにこう書いてありました。


 「ピッチャーは投げる前に、投げる球種を決めている…」

 という一文に注目。ピッチャーが球種を決めてからピッチングの動作に入るのは当たり前ですが、そこに大いなるヒントを見出したのです。

 野村さんは考えます。

 「ピッチャーがボールを投げる前に、直球か変化球か、どんな球種を投げるのかがわかれば、打つのはたやすくなる」

 その後、野村さんはピッチャーの投球モーションを徹底的に研究します。そして、相手ピッチャーのわずかなクセから投げる球種を読み取り、野村さんは打撃に開眼。その後はご存知のとおり、三冠王(1965年戦後初)を獲得するほどの、球界随一のスラッガーに成長していったのです。「敵の出方を探る」という戦略に活路を見出した、野村さんの大勝利でした。



*上司の一挙手一投足を見てその日の機嫌を判断する。

 上場企業に就職した斉藤明さん(仮名)は、気難しい上司のもとに配属されます。

 その上司は、仕事ぶりは優秀で、会社からも一目置かれる存在でしたが、何しろ気分屋で、部下どころか会社側も気を遣うほおです。しかし、斉藤さんは、こんな“厄介な上司”に見事に仕えます。

 斉藤さんはその上司の行動の一挙手一投足を観察し、上司のそのときの気分を巧みに読み取ったのです。

 一例を挙げると、部屋に入ってくる上司の足音一つで、そのときの上司の精神状態まで見抜いたといいます。企画を提案するときや、仕事の進捗状況を報告するときなど上司に接するときは、なるべく機嫌がいいときを狙います。

 そんな斉藤さんを、周囲は「おべっか使い」と冷ややかな目で見ていましたが、斉藤さん本人は気にも留めませんでした。



*業界重鎮の右上としてビジネスマン人生を全うする。

 後年、斉藤さんはこう語ります。

 「部下は、上司が少しでも気分よく仕事をしてくれるように行動するのがいい。これは私個人が評価されるということより、会社全体の業績にプラスになると思ったからです。」

 常に気分がいいときに接してくる斉藤さんを、その上司は「かわいい奴」と評価します。

 「気分をよくしてくれる」というのではなく、「気分がいいときに、いつもアイツがいる」という単純な構図ですが、これが奏功。斉藤さんは、終生その上司に仕え、会社のみならず、業界の重鎮となったその人の記帳な右腕として活躍したのです。